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7話 鍵のかかった部屋

last update Veröffentlichungsdatum: 25.06.2026 15:06:40

愛梨沙は、瑠璃子の画面を少しずつ遡りました。

ホテルのラウンジは、まだ静かでした。窓の外では雨が細かく降り続いていて、傘を差した人たちが顔を伏せて歩いています。テーブルの上のアイスティーは薄くなり、グラスの底で小さくなった氷が、ほとんど音も立てずに溶けていました。

それでも愛梨沙は席を立ちませんでした。

スマホの中には、鴻上瑠璃子という女の暮らしがありました。朝食だけではありません。花瓶の水を替えた朝、洗い立てのシャツを畳んだ午後、夫の帰りを待つ夜の灯り。どれも静かで、きちんとしていて、乱れたものなどひとつもないように見えました。

けれど、一度気づいてしまうと、隙のないものほど怪しく残りました。

6月16日。

その日付で、愛梨沙の指が止まりました。

画面に出てきたのは、白いシャツでした。男物のシャツです。袖は左右ぴったりに重ねられ、襟元には皺ひとつありません。横には青い紫陽花の小さな花びらが、偶然そこに落ちたふりをするように置かれていました。

文章は短く添えられていました。

「明日は少し大事な日だそうです。白いシャツを選びました」

明日。

つまり、今日です。

男が薔薇のルビーのピアス
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    白いボトルの口元は夜が深くなっても濡れていました。愛梨沙は眠りませんでした。眠ろうとはしました。カーテンを閉めて部屋の明かりを落とし、白い手袋をテーブルの上に置いたままベッドへ入りました。けれど目を閉じると、雨の中で届いた男の匂いがまた喉の奥へ戻ってきます。拓哉の匂い。その奥に入り込んだ、赤い花の匂い。白い部屋の中に、麻里亜という名前だけが浮いていました。声に出すにはまだ喉に引っかかる名前でした。けれど知らないふりをするには、もう近すぎる名前です。ホテルのラウンジで聞いた声。白い箱の横にあったカード。赤い爪が白いリボンをほどいた時の、するりとした音。麻里亜。その女は、拓哉の袖口に触れました。拓哉はその手を振りほどきませんでした。(麻里亜さん)愛梨沙は布団の中でその名前を呼びました。もちろん声には出しません。唇の内側だけがそっと動きました。(あなた、どこにいるの?)答えはありません。部屋の中ではエアコンの小さな音だけが続いていました。雨は少し弱くなったようでしたが、窓の向こうの道路はまだ濡れていて、時々車の光が天井へ薄く流れました。愛梨沙は起き上がりました。ベッドを出ると、足の裏に床の温度が移りました。テーブルの上には白いボトルと白い手袋とスマホが、出ていった時のまま置かれていました。白いボトルはもう飲み物ではありませんでした。拓哉がこちらを見た時、愛梨沙の手の中にあったもの。拓哉の匂いを思い出すたび喉の奥で甘さを残すもの。そこに麻里亜の赤まで混ざってしまった、困った白です。愛梨沙はスマホを取りました。画面を開くと、さっきの鍵垢の投稿がまだ残っていました。「名前のない匂いがまだ喉にいる赤い花の匂いもした気がする」投稿 8フォロー中 0フォロワー 0誰も読んでいません。誰も読んでいないからこそ、その言葉は愛梨沙の中に閉じ込められていました。赤い花。そう書いたのは自分です。麻里亜と書かなかったのも自分です。けれど、もう分かっていました。赤い花は、麻里亜でした。(書かないであげたんだよ。まだ麻里亜さんって書かないであげた。なのに、どうしてこんなに喉にいるの?)愛梨沙は検索画面を開きました。昨夜の文字がまだ残っています。麻里亜 赤い爪 薔薇 ピアスその文字列は少し恥ずかしいものに見えました。知らない女の持ち

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  • あなたの罪まで愛してる   9話 白いニットの女

    (誰?)愛梨沙は、画面の下に出た小さな表示を見つめました。あなたにおすすめ白いニットを着た女のアイコン。そこに添えられた一文。「甘やかしてくれる人、どこですかぁ?」雨の音が、駅ビルの入口で少しだけ強く聞こえました。自動ドアが開くたび、外の湿った空気が入り込み、店じまいを始めた【Y.COCO】の硝子に細い曇りを残します。愛梨沙は、まだ動けませんでした。おすすめ。ただの表示です。画面の下に勝手に出てきただけの、知らない女です。愛梨沙が作ったばかりの鍵垢とは関係ありません。拓哉とも、瑠璃子とも、麻里亜とも関係があるとは限りません。それなのに、その一文だけが喉の奥に引っかかりました。甘やかしてくれる人。どこですかぁ?語尾の小さな伸び方まで、指先にまとわりつくようでした。(甘やかしてくれる人って、誰? 誰にそんな顔して探してるの? 私には関係ないはずなのに。知らない女の知らない言葉なのに、どうしてこんなに嫌なの?)愛梨沙は、白い手袋の指で画面に触れました。開いてしまってから少しだけ後悔しましたが、閉じることはできませんでした。白いニットの女のページに、鍵はかかっていませんでした。誰でも見られる場所に、柔らかそうな写真と言葉が置かれています。白いニットを着た女のそばに、薄いピンクのカップがありました。ミルクティーの横には小さな花が置かれ、少しぼやけた自撮りには顔の半分だけが写っていました。大きな目と淡い色の唇が、笑っているようにも、寂しそうにも見えます。名前の欄には、すず音、とありました。宵宮すず音。愛梨沙は、その文字をゆっくり読みました。宵宮。すず音。夜に鳴る鈴みたいな名前だと思いました。可愛い名前です。本人も、そう思われることを知っているような名前でした。(すず音さん。可愛い名前。呼ばれるために生まれてきたみたいな名前だね。誰かが少し甘く崩して呼ぶための名前。いいな。そういう名前の人は、寂しいって言ってもきっと怒られないんだ)心の中で呼んでみると、音が軽く跳ねました。麻里亜という名前は、赤くて少し重い。瑠璃子という名前は、青くて、声に出す前から静かでした。すず音という名前は、白いカップの縁に当たったスプーンみたいに、軽く鳴る名前でした。愛梨沙は投稿を下へ送ります。「今日はちょっとだけ声聞けたから、まだ頑張れる」

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